教会暦と聖書の流れ
「四旬節」という言葉は「40日の期間」という意味で、その原型はイエスが活動を始める前に、荒れ野で40日間の断食の日々を過ごされたという出来事にあります。そこで毎年、四旬節第一主日に、この箇所が読まれます。四旬節は古代では復活祭に洗礼を受ける人の特別な準備期間でしたが、次第にすべての信者が復活祭をふさわしく迎えるために回心に励む期間となりました。現代では成人のキリスト教入信の準備期間という性格が取り戻され、この第一主日のミサの中で、復活祭に洗礼を受ける人の洗礼志願式が行なわれます。
福音のヒント
(1) イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事の次に、この出来事が伝えられています。洗礼の場面はこうでした。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(ルカ3章21-22節)。
今日の箇所でも「聖霊に満ちて」「“霊”」(4章1節)という言葉があります。「聖霊=“霊”」は目に見えない神の力・働きです。イエスのこれからの歩み全体は神に導かれたものですが、この荒れ野の出来事も神の導きによるのです。
聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになりました。悪魔は二度イエスに向かって「神の子なら…」と言います(4章3,9節)。洗礼の時に天から聞こえた「あなたはわたしの愛する子」という宣言の本当の意味がこの誘惑の物語の中で示されます。
(2) 聖書の中で「40」という数は、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりも紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、生きるのに厳しい環境です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。その中で神への信頼がいつも問われました。イエスの荒れ野の40日間も、神とのつながりが問われる場でした。
(3) イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記の主な部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています。イエスの答え、「人はパンだけで生きるものではない」は申命記8章3節の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた天からの食物「マナ」について語る言葉です。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、というのです。8節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。これは、民が約束の地に住み、豊かな食べ物で満たされるようになっても、主を忘れ、周辺民族の他の神々にひかれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られる言葉です。12節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。それは、イスラエルの民が荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面でした。
(4) きょうのルカの箇所とマタイ4章1-11節は、同じように悪魔(サタン)の3つの誘惑を伝えていますが、2番目と3番目の誘惑の順序が逆になっています。ルカが、エルサレムの神殿での誘惑を最後に置いていているのは、エルサレムでのイエスの受難に結び付けて考えているからでしょう。「時が来るまで」(4章13節)の「時」は決定的な悪との対決の時、すなわちイエスの受難の時を意味しています。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4章9節)という悪魔の言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23章35, 37節)を思わせる言葉でもあります。そのすべての誘惑の中でイエスは父である神への信頼と従順を貫くのです。今日の箇所での誘惑との戦いは、イエスの活動のはじめの時の一回の出来事というよりも、イエスのこれからの活動、十字架の死に至る(あるいは死と復活をとおって神のもとに至る)活動全体の縮図なのだと考えることができるでしょう。
(5) 最後の誘惑で悪魔は詩編91編11-12節を引用します。この詩編は確かな守りを与えてくださる神への信頼を呼びかける詩編ですが、悪魔はそれを自分のために使うように誘惑するのです。神の守りへの信頼は良いことであり、モノや安全を手に入れることを願うのも悪いことではありません。イエスも実際、5つのパンで大群集の飢えを満たしたり、多くの病人をいやしたりしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全は大切です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味で、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできません。問題は、自分のためだけにそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことなのです。
わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。わたしたちはその中でいつも神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。これは決して四旬節だけのテーマではありません。しかし、四旬節はそのことを強く意識させてくれるチャンスなのです。
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