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年間第5主日 (2016/2/7 ルカ5章1-11節)

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[聖書朗読箇所]

教会暦と聖書の流れ

マタイ福音書やマルコ福音書では、イエスと最初の弟子になった人々の出会いの物語はイエスの活動の始めに置かれています(マタイ4章18-22節、マルコ1章16-20節)。ルカ福音書では、イエスがナザレやカファルナウムなどガリラヤ地方で活動を始めた後、しばらくしてから、この出来事が起こったことになっています。またルカの物語では、マタイやマルコの物語に「不思議な大漁」の物語が組み合わされているところに特徴があります。

福音のヒント

0204(1) 「ゲネサレト湖」はガリラヤ湖の別名です。マタイやマルコで、ガリラヤ湖の漁師たちとの出会いが最初に置かれていることには意味があります。「神の国」の到来を告げ知らせるイエスの活動の、目に見える一つの実現の形が、イエスの呼びかけに応えてイエスに従った人々の姿だと言うことができるでしょう。また、この弟子たちがイエスのなさるすべてのことの証人になるわけですから、最初から一緒にいなくてはならないのです。ただし、ガリラヤ湖畔でいきなりイエスに声をかけられて、すぐについていったというのは少し不自然に感じられるかもしれません。マタイやマルコはこの最初の弟子たちの姿を理想化して描いているのでしょうか。一方ルカでは、ペトロたちは、イエスが「神の言葉」(1節)を語られるのを聞き、イエスの不思議な力に触れてから、イエスに従うようになりました。このほうが自然だと感じられるでしょうか。

(2) ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。日中、魚は湖の深いところにいて、夜になると水面近くに上がってくるからです。シモンはイエスから頼まれて、イエスを自分の舟に乗せています。夜通し苦労して何も獲れなかったという疲労感や失望感の中でもイエスの頼みに応えようとしています。そこでシモンはイエスが語る「神の言葉」を聞くことになりました。そして、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。プロの漁師としては、夜通し働いて獲れなかった魚が、日中になって獲れるはずがないと考えるのが当然でしょう。しかし、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言います。それはイエスが「神の言葉」を語るのを聞いていたからだと言えるのではないでしょうか。

わたしたちの体験の中に、このようなことがあるでしょうか。頑張っても物事がうまくいかず、疲れ、失望しかけたときに、それでもイエスの言葉に励まされてもう一度やってみたら、思わぬ良い結果が生じた、というような体験です。わたしたちにとっての「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とは、どんな時のどんな言葉でしょうか?  

(3) 不思議な大漁を見たシモン・ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びます。「主」(ギリシア語の「キュリオスkyrios」)は新約聖書の中で旧約を引用するとき、神について使う言葉です。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2章36節)。これはペンテコステ(五旬祭、聖霊降臨の日)のペトロの説教の結びの言葉です。ペトロはイエスの死と復活をとおして、イエスが神の子であり、神と等しい方であることを確信することになります。しかし、この最初の出会いの時から、そのことは予感されているのです。

ペトロはイエスの神的な力を感じて、「わたしから離れてください」と言います。神は聖なる方であり、その神に近づくと、罪深い者である人間はその聖性に耐え切れずに滅びてしまう、と考えられていました。この日のミサの第一朗読で読まれるイザヤの言葉も同様です。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚(けが)れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6章5節)。

(4)そんなペトロに向かって、イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われます。イエスは罪深い人間を滅ぼすためにではなく、その罪をゆるすために来られました。「罪」とは「神から離れること」です。イエスは神の子として、人が神に立ち返り、神との親しさを取り戻すこと(これが「罪のゆるし」です)のためにこそ世に来られたのです。

ペトロには使命が与えられます。「人間をとる漁師」は直訳では「人間を生け捕りにする者」です。ここには人を「まことの命へと導き入れる」というニュアンスがあるのでしょうか。そして、この「不思議な大漁」の出来事は、これからの弟子たちの活動の実りの豊かさを暗示しているとも言えるのでしょう。なお、この10節の言葉はペトロ一人に向かって語られていますが、11節の「彼ら」にはもちろんヤコブとヨハネも含まれています。「すべてを捨てて」はイエスに従う者の典型的、理想的な姿と考えられます。

(5) 不思議な大漁の話は、ヨハネ21章にもあります。これは復活したイエスと弟子たちとの出会いの物語です。時期や細部はずいぶん異なりますが、夜中にガリラヤ湖で漁をしても何も獲れなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を下ろすとたくさんの魚が獲れたという点では共通しています。2回同じような出来事があったのでしょうか。1つの共通の伝承(言い伝え)があって、2つの福音書それぞれが別の仕方で伝えているのでしょうか。いずれにせよ、この2つの箇所から、福音の物語が2000年前の物語であると同時に、今のわたしたちと復活したイエスとの出会いの物語でもあると感じることができるのではないでしょうか。そのような物語としてきょうの福音を味わいたいものです。

 

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「福音のヒント(Word)」   ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
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