教会暦と聖書の流れ
四旬節の第3~第5主日のミサの福音の内容は、3年周期の各年でずいぶん雰囲気が異なります。A年は洗礼志願者のための伝統的な3つの箇所が読まれます(ヨハネ4, 9, 11章)。B年にはより直接的にイエスの死と復活に関連する福音書の箇所が選ばれています。これに対して、今年C年は「回心と罪のゆるし」がテーマになっているようです。
ルカ福音書の12章35節~13章9節では回心の呼びかけが続いていますが、きょうの箇所はルカ福音書だけに伝えられている話です。
福音のヒント
(1) 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言いますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえをささげようとしていたところをローマ軍によって殺害された、という事件のことを表しているようです。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指しているのでしょう。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池(ヨハネ9章7節参照)がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってショッキングな出来事だったはずです。当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけるのはひどいことです。イエスはそういう考えに与(くみ)しません。「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。ほとんど同じ表現が二度繰り返されていて、強調されています。それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取ることを求めていると言えるでしょう。さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
(2) 「皆同じように滅びる」の「滅び」は、殺されたガリラヤ人やシロアム事故の犠牲者の滅びと同じレベルの話ではなく、終末の裁きにおける滅びの意味です。
ここでは、「さまざまに起こる悲惨な出来事は人類一般の罪の結果である」という考えは否定されていないのかもしれません。また、ルカにとってこの「滅び」とは、もしかしたら紀元70年に実際に起こったローマ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊をも意味していたのかもしれません。だとすれば、その破滅が起こったのは、ユダヤ人全体の罪の結果だということになるでしょうか。
(3) 6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。いちじくの木をぶどう園に植えることは当時、一般的に行なわれていたことだったようです。「実を結ばない木」は洗礼者ヨハネの説教にも現れた表現です。「悔い改めにふさわしい実を結べ。…良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3章8, 9節)。
このたとえ話で、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか。園丁(えんてい)とは誰のことでしょうか。「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス」と考えることもできるかもしれませんが、ルカ福音書はそこまで考えてはいないようです。来年もまた実がならなかったらこのいちじくの木はどうなるのだろう、ということも気になりますが、それもこの話のポイントではないようです。このたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」ということ、そのものだと考えるべきでしょう。ここでは、神の忍耐やいつくしみよりも、今が回心の最後のチャンスだということが強調されているのです。
(4) 「滅びる」や「切り倒す」というような裁きのイメージをわたしたちはどう受け取ったらよいのでしょうか。イエスが示した神はいつくしみ深い父でした。人が誰も滅びることなく、すべての人が生きることを望まれ、罪びとにゆるしを与える方でした。しかし、イエスのメッセージの中には、厳しく人に回心を迫る面もありました。それを今のわたしたちが、自分たちの生き方への問いかけとして、真正面から受け取ることは大切です。
この「神の裁き」を考えるとき、ヨハネ福音書に大切な箇所があります。
「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハネ3章16-19節)。
ここでは、神が裁きを行なうというよりも、人が光に背を向け、闇の中にとどまるならば、そのこと自体が裁きだ、というのです。聖書によれば、人は神によって生かされているものであり、神とのつながりを失えば滅びるしかない存在です。ですから、神から離れた生き方をしている人間は神によって罰せられるというよりも、その生き方そのものが滅びに至るものなのだと言ってもよいのでしょう。
(5) 「さまざまな悲惨な出来事はわたしたちにとって回心のチャンス」であり、「今がその最後のチャンス」なのだというメッセージをわたしたちはどう受け取ればよいでしょうか。現代社会は、人間の科学技術が高度に発展し、人間の力が万能だと錯覚し、結局のところ経済万能になっているような面があります。この現実の中で起こってくるさまざまな事件、事故、社会問題(たとえば福島第一原発事故のような!)を考えたとき、きょうの福音のメッセージは決して他人事とは思えません。今のわたしたちにとって、「今回心する」「回心にふさわしい実を結ぶ」ということはどういうことなのでしょうか?
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