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四旬節第2主日 (2016/2/21 ルカ9章28b-36節)

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[聖書朗読箇所]

教会暦と聖書の流れ

きょうの福音の箇所は、イエスの姿が山の上で光り輝いた、いわゆる「主の変容」の出来事です。四旬節に変容の出来事を思い起こすことは古代からの教会の伝統です。この栄光のイエスの姿は、これからイエスが受難と死をとおってお受けになる復活・昇天の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、同じ道に弟子たちを招くものでした。

四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべては、きょうの福音のテーマである「イエスの死からいのちへの過越(すぎこし)にあずかること」とつながっています。

福音のヒント

0304(1)  冒頭28節の前半が省かれていますが、そこには「この話をしてから八日ほどたったとき」という言葉があります。「この話」とは、イエスが初めてご自分の受難・死・復活について弟子たちに語られたことを指しています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9章22節)。

ここに登場するモーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要部分を指す言葉です。ルカ福音書では、この3人の話し合っていたことが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について」(ルカ9章31節)であったと伝えられていて、イエスの受難・死・復活が聖書に記された神の計画の中にあることを、他の福音書以上にはっきりと示しています。

(2) このように見てくると、この山の上で示された栄光に輝くイエスの姿は、単なる栄光の姿というよりも、イエスが受難と死をとおって神のもとで受けることになる栄光の姿なのだと分かるでしょう。つまり、上に引用した9章22節が言葉による受難予告であるとすれば、この変容の出来事は「出来事による受難予告」と言ってもよいのです。

モーセとエリヤがイエスから離れていこうとしたとき、ペトロは仮小屋を建てようと提案します。これは自分たちの先生がモーセやエリヤと語り合っている、このあまりにも素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。

(3) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。

雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9章35節)。この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3章22節)によく似ています。この言葉の背景にはイザヤ42章1節「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」があるようです。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難への道を歩み始めますが、その時に再び同じような声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も神の子としての道、主の僕としての道であることが示されるのです。

そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18章15節参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9章23節)と言われていたことと対応していると言えるでしょう。

受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。

(4) イエスは「祈るために」(28節)山に行き、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)と言われます。イエスが祈る姿をよく伝えるのはルカ福音書の特徴です。受難予告の導入にあたるルカ9章18節にも「イエスがひとりで祈っておられたとき」という言葉があります。祈りとは、特別に神との親しい時を過ごすことです。イエスの地上での歩みは受難と死に向かう道でした。しかし、イエスは祈りの中で、それを神の大きな救いの計画の中にあることとして受け止め、そして自分のすべてを神の計画に委ねていったと言ってもよいのではないでしょうか。きょうの箇所でも、だからこそイエスの姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。

祈りの中で神に心を向け、祈りの中で自分の思いを越えた神の救いの計画を受け止め、そこから自分の現実を見つめなおす。そのとき、目の前の困難や苦しみを超えた救いの世界を、祈りの中で受け取ることができる…。だとすれば、きょうのイエスの姿は、四旬節の時を過ごすわたしたちにとって大きな励ましだといえるでしょう。

実はルカ福音書の中に、弟子たちの祈る姿はほとんど表れていません。弟子たちは、イエスの復活と昇天の後、祈り始めることになります(ルカ24章53節、使徒言行録1章14節参照)。弟子たちを、ほんとうの意味でイエスに従う者へと変えていくのは、この「祈り」だと言ってもよいのではないでしょうか。

 

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